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                一番デタラメな判決

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                            奚暁明副院長

 

 

1.奚暁明副院長の疑惑

  2015年7月12日、中央規律検査委員会は、奚暁明最高人民法院副院長が重大な規律違反と違法行為の疑いで調査を受けている、と発表しました。正義と法治の砦ともいえる裁判の、ほとんど最高に近いポストにある人物の違法行為発覚に、反腐敗闘争で高級幹部の失脚が日常茶飯化する中国でも、大きな衝撃が広がりました。しかし、事情を知る法律関係者のあいだでは、ついに来るべきものが来た、と受け止める人も少なくなかったようです。

 というのも、奚副院長は数年前にみずから担当した民事裁判で、民事法の研究者たちから「一番デタラメな判決」と批判を浴びた不可解な判決を下しており、その背後関係がいろいろと取りざたされていたからです。

 

2.最高人民法院きっての研究者

 まず、その判決について説明する前に、奚副院長の簡単な経歴を紹介しておきましょう。

 彼は、高校卒業後、瀋陽市で公安局に勤務していましたが、1978年に吉林大学法学部に入学し、卒業後は最高人民法院の研究室で書記員として勤務しました。1985年に裁判員に採用されたのち、1989年には北京大学の大学院に入学して修士号を得ています。在学中に1年間、ロンドン大学に留学もしています。1993年に復職しましたが、1998年には在職のまま北京大学大学院の博士課程に進み、博士号を取得したのち、2004年からは副院長に昇格していました。この間、裁判官としては一貫して民商事関係の副廷長、廷長を務めており、民商事関係の裁判を指導する最高のポストについていた、と言えるでしょう。最高人民法院の役職にある裁判官では、ただひとりの公安出身者ですが、その経歴が示すように研究者型の裁判官としても知られ、2015年5月には同院が設置した「民法典編纂工作研究小組」の組長にも任命されたばかりでした。

 

3.百億元鉱山争奪事件

 奚副院長がどのような問題で調査を受けているかについては、何も明らかにされていないため推測の域を出ないのですが、多くのメディアは「一番デタラメな判決」とのつながりに関心を寄せているようです。「一番デタラメな判決」と呼ばれているのは、2012年9月に最高人民法院が第2審判決を下した(76号判決)、俗に「百億元鉱山争奪事件」と呼ばれる民事紛争の判決です。

 事件の概略をごく簡単に記せば、これは山西省にある炭鉱の譲渡契約をめぐる紛争で、原告が所有する炭鉱を被告に譲渡したところ、のちに炭鉱の資産価値が急騰したため、原告が契約の取り消しと炭鉱の返還を求めて被告を訴えた、というものです。これだけの説明だと、明らかに原告の主張は無理筋で、勝ち目はないようですが、なんと山西省高級人民法院でおこなわれた第1審は、契約された価格は不当に安く、契約は無効である、という理由で、原告勝訴の判決を下したのです。

 この判決を不服とする被告が最高人民法院に上訴したのですが、第2審は原判決を支持し、上訴を棄却しました。

 最高人民法院の判決に驚いた民法などの研究者は、あちこちで判決の検討会などを開催し、その内容についてこぞって厳しい批判を展開しました。そのなかから、「一番デタラメな判決」〔最荒唐的判決〕というネーミングが生まれ、定着していったのです。中国社会科学院法学研究所の梁慧星教授は、「われわれが改革・開放から30年のあいだに積み上げてきた民事訴訟法、民法、商法の制度を根底から破壊するものだ」、と憤りをこめて述べています。(『南方都市報』2013年7月15日)

 奚副院長がこのような判決を出したのは、おそらく原告に買収されていたからに違いない、というのが、この問題を指摘するメディアの一致した見方のようです。奚副院長は、すでに2014年3月に中央規律検査委員会から事情を聴かれていた、という情報もあり、どうやら判決後から党中央は調査を進めていたが、ようやくその容疑が固まってきたのであろう、と見ているわけです。

 

4.事件の深層

 さてこの奚副院長に向けられている疑惑ですが、ちょっとおかしくありませんか?

 いくら大金に眼が眩んだとしても、このようなやり方ではあまりにも露骨すぎて、まるで自分から墓穴を掘ったようなものではないでしょうか。通常の判例研究のスタンスでこの判決を眺めると、梁教授らが指摘するように、トンデモナイ判決ということになるのは間違いないようですが、そこを少し踏み外して、さらに裏の事情にまで突っ込んでいくと、ちょっと表とは異なる風景が見えてくるようなのです。というのも、この裁判の原告、被告ともに、普通の一般人とは思えないからです。

 まず原告ですが、山西省では有名な資産家の張新明という人で、1998年に金業集団有限会社を設立し、その董事長として炭鉱開発などをおこなってきました。本件は、同社が経営危機に陥った際、資金繰りのため同社の株の一部を被告に譲渡したことが発端となっています。しかし、同社が世間に広くその名を知られるようになったのは、2010年に華潤電力とのあいだで引き起こした、企業買収事件だったのです。

 この事件も簡単に説明すれば、華潤は金業の一部資産を約80億元で買収したのですが、じつはこの資産にはほとんど価値がなく、要するにこの資金は金業に提供されたものではないかと疑われたのです。じっさいこの件では華潤集団の董事長らが、2014年に中央規律委員会の調査対象となっていますが、張新明については、とくに調査対象とはされなかったようです。

 次に被告の呂中楼ですが、こちらも山西省では張新明と並ぶ資産家として知られており、沁和集団という企業を経営し、炭鉱開発などにも投資していました。山西省では2001~2003年のあいだ、国の政策にもとづいて国有鉱山の整理、再編を実施したのですが、沁和集団はこれに便乗して省の大物幹部とつながり、国有資産を不当に廉価で払い下げを受けることに成功した、というのです。これによって流失した国有資産はなんと800億元にも上ると言われ、2012年には省の幹部ら数名が調査対象になりましたが、ここでもやはりなぜか呂は対象とはされませんでした。

 

5.判決を決めたのは?

 話がだいぶ脇道にそれてしまったので、本題に戻しましょう。

 ここでとりあえず問題なのは、原告の張新明の方です。というのも、華潤集団は中央国有企業で、ビールの製造やスーパーの経営で庶民にはおなじみですが、電力、不動産、金融などもてがける超大型企業です。じつはその背後には曾慶紅や周永康がいるともいわれ、張は周永康の息子との関係が取りざたされています。もしかすると、周は張の〔保護傘〕だったのでしょうか?

 最高人民法院の第2審では、原告側の代理人として、奚暁明副院長と吉林大学で同級生だった弁護士が依頼を受けたことが注目されており、この弁護士を通じて奚副院長は買収されたのではないかと見られているのです。ですがこの見方はちょっと現実的ではないように思われます。というのも、第2審の判決は最高人民法院の裁判委員会で協議されており、奚副院長が単独で判決を下したわけではないからです。裁判委員会は多数決が原則ですので、裁判官をひとり買収したくらいでは、デタラメな判決を押し通すことは無理なのではないでしょうか。

 ここはむしろ、劉涌の裁判の時と同じく、周永康が中央政法委員会書記という立場を悪用して最高人民法院に圧力をかけ、第1審判決を支持させた、と見る方が、合理的なように思われます。もちろん、第1審もその点では同じはずなのですが。

 山西省は令計画の出身地であり、彼のファミリーが利権をむさぼって暗躍したことが知れ渡っていますが、この事件もやはりそうした政治的環境のなかで生まれたものなのではないでしょうか。真実はまだ闇のなかであり、すべては憶測の域を出ませんが、普通なら考えられないような噂話でも、「アリかもしれない」と考えざるを得ないのが、中国の現状だということなのでしょう。

 

   【参考文献】

    田中信行「中国の最もデタラメな判決」、『早稲田法学』第92巻第3号、2017年3月。

 

 

 

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