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                           疑惑の死刑判決 ーー 劉涌の裁判

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         逮捕時の劉涌                 再審判決を聞く劉涌。頭髪が真っ白に・・・

 

 

1.劉涌黒社会犯罪組織 

  1960年、遼寧省瀋陽市に生まれた劉涌は、中学卒業後に起業して成功し、1990年頃には瀋陽嘉陽集団の董事長として、東北有数の民営企業家といわれていました。しかしその頃から、瀋陽市公安局との関係が悪くなり、疑惑人物としてマークされるようになります。

  1995年には、瀋陽嘉陽集団が黒社会犯罪組織と認定され、いっそう厳しい監視を受けるようになりますが、決定的な犯罪の証拠が挙がらず、逮捕されるには至りませんでした。

  ところが 1999年に瀋陽市では、130名もの市政府幹部を巻き込んだ汚職事件が明るみに出たため、これに関係した事件、人物の大規模な摘発が始まります。この事件は、逮捕された慕綏新市長と馬向東副市長の頭文字をとって、「慕馬事件」と呼ばれていますが、馬副市長の取調べから、劉涌の贈賄容疑が浮上しました。捜査の結果、市公安局は一連の容疑が確認されたとして劉涌を指名手配し、2000年7月に逮捕しました。

 

*黒社会犯罪組織とは    刑法第294条から

  暴力、威嚇またはその他の手段により組織的に違法犯罪活動を繰り返し、経済的利益を得て一定の経済力を備え、それによって組織的活動を支えていること。

 

2.劉涌の裁判

  劉涌はその一味とともに、黒社会犯罪組織のボスとして訴追され、鉄嶺市中級人民法院でおこなわれた第1審では、即時執行の死刑判決を受けました。ところが第2審の遼寧省高級人民法院は、証拠の不確実性、取調べ中におこなわれた拷問の疑惑などを理由に、2年間の猶予期間つき死刑に判決を改めてしまいました。

  中国の裁判は2審制ですが、死刑判決の場合は、最高人民法院が改めて死刑を承認するか審査する手続きが用意されており、2審制の不足を補っています。ただし、この審査手続きが対象としているのは即時執行の死刑判決だけで、猶予期間の付いた死刑判決は対象ではありません。したがって劉涌の判決は、第2審で確定することになりました。

  ところが、最高人民法院はこの確定判決に対し、みずから再審手続きを開始することを決定し、しかもその再審裁判を自身が担当することにしたのです。この再審は、最高人民法院が遼寧省錦州市の中級人民法院に出張するかたちでおこなわれ、2003年12月に再び即時執行の死刑判決が下されました。

  日本では、裁判所がみずから再審を開始したり、原判決よりも重い判決を下すことは認められていませんが、絶対的真実主義をとる中国の裁判では、このような裁判監督手続きが認められているのです。

 

 

 

 

 

 

                                             

                               死刑が執行された錦州市殯儀館       この車内で薬物注射により処刑された

 

3.薄熙来の陰謀 

  劉涌の裁判にかかわる疑惑は、すべて薄熙来による介入が原点となっているのですが、そこでまず、薄がなぜこの裁判に介入することになったかを、先に説明しておくことにしましょう。 

  1990年代に遼寧省大連市で、市長、党委員会書記にまで上り詰めた薄熙来は、2001年に遼寧省省長、党委員会副書記となり、瀋陽市に移ります。しかし、省党委員会には溶け込めず、聞世震書記との溝を深め、孤立するようになります。聞書記の座を継いでから中央政界入りを狙っていた薄は、危機感を募らせ、聞書記の追い落としを画策するようになります。そこで目を着けたのが注目を集めていた劉涌で、聞書記とも親しいと噂のあった劉なら、何らかのつながりがあるのでは、と考えたわけです。

  劉涌を問い詰めて、聞書記の不正行為につながる情報を手に入れる。これが薄の狙いだったのです。

 

4.異地審判

  劉涌の裁判には、当時始まったばかりの異地審判の原則が適用され、本来の管轄地である瀋陽市ではなく、鉄嶺市で第1審がおこなわれています。しかし、異地審判の原則が対象としているのは、高い地位にある公務員か党員であり、いずれにも該当しない劉涌は、その対象ではありません。

  薄熙来はここでまず、劉涌の裁判に異地審判の原則が適用されるよう介入するのですが、その目的は劉の取調べを王立軍に担当させることにありました。裁判期間中の被告人は、看守所と呼ばれる施設に収容されますが、看守所は公安の管理下にあります。当時、王立軍は鉄嶺市の公安局長であったため、第1審期間中の劉は、王の管理下に置かれて、取調べを受けた、ということになります。

  第2審は瀋陽市の高級人民法院でおこなわれていますが、書面による審査だけでしたので、この期間中も、劉は鉄嶺市の看守所で過ごしています。

 

5.拷問疑惑 

  薄熙来の依頼を受けた王立軍は、みずから劉涌の厳しい取調べにあたります。しかし彼の尋問の目的は、裁判とは直接関係のない、聞世震書記にかんする情報を得ることでした。 劉がまったく情報を提供しないため、王による拷問は日を追って厳しくなり、薬物まで使用したという噂が広がりました。

  瀋陽市などの地元では、拷問の噂が広がったため、省の人民代表大会、市の政府と人民検察院などが、調査に乗り出すほどでした。この噂の広まりは同時に、王立軍と薄熙来との関係、薄熙来による陰謀の噂へとつながっていきます。

  劉涌黒社会犯罪組織事件の裁判で、証拠の捏造疑惑を指摘された市公安局などは、劉涌の極悪非道ぶりを紹介するテレビ番組などを作成して世論操作を画策しましたが、公式のメディアのなかにも拷問疑惑を指摘するものが相次ぎ、第2審判決がこれを認めたことで、薄熙来は絶体絶命のピンチに陥りました。

 

 

 

 

 

 

                                                       

                              劉涌に使用されたと言われるタイガーベンチ

 

 

6.最高人民法院による再審 

  第2審判決が拷問疑惑を認めて、劉涌の刑を軽くしたことは、中国社会を驚かせましたが、最高人民法院がこの判決に異議を唱えたことは、さらに衝撃を与え、劉涌の裁判は建国以来、文革関連の裁判を除いては、もっとも社会的注目を集めた刑事裁判となりました。

  社会が注視するなか、最高人民法院は異例の再審手続きによって劉涌を死刑に処したのですが、じつはこの最高人民法院の対応は、同法院自身の意思に反したものであるようなのです。この点について、以下の証言を紹介しておきます。

 

証言①  裁判官の証言

  第2審を担当した遼寧省高級人民法院の裁判官は、 省の人民代表大会代表に対する説明のなかで、高級人民法院は第1審判決を妥当とする意見書を最高人民法院に3回提出したが、ことごとく否定された、と述べています。つまり第2審による判決の変更は、最高人民法院の意思に沿ったものであった、ということになります。

 

証言②  ワシントンポスト紙の記事

  再審判決を伝えたワシントンポストの記事は、関係筋の情報として、即時執行の死刑を指示したのは、周永康中央政法委員会副書記(当時)である、と暴露しています。

 

*現在この記事は有料化されており、ワシントンポスト紙のHPでは簡単に全文を見ることができませんが、以下のプレビュー画面でも、周永康についての部分は参照できます。

  John Pomfret,“Execution Reveals Party's Grip in China;Case Highlights Flaws in Legal System",

  “Washington Post”, 2003年12月23日。

 

  以上の証言が正しいものであると仮定するなら、最高人民法院による再審は、最高人民法院自身の意思によるものではなく、中央政法委員会が介入して指示したもの、ということになります。 

  中央政法委員会が介入した目的は、言うまでもなく、薄熙来の政治生命を守るため、彼を拷問疑惑から救出し、生き証人である劉涌を死刑にして葬り去ることにあったわけです。

  この意図は、最高人民法院が再審の場所に錦州市の人民法院を選んだことによって裏付けられます。この時期、王立軍は鉄嶺から錦州に異動しており、錦州で裁判をおこなえば、劉を王の管理下に置いておくことができたからです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                              疑惑の映像

               上の写真は、遼寧省公安庁が作製したテレビ番組の一場面。最高法院による再審開始が決定して、

              錦州市の看守所に移送される劉涌の頭髪が、なぜか黒々と写っています。

 

 

7.消せない疑惑

  再審判決言い渡しの当日、劉涌は死刑を執行され、43年の人生を閉じました。ですが、最高人民法院もしくは中央政法委員会による、このような強引であからさまな対応は、劉涌事件の冤罪疑惑と、これを背後で操ったとみられる薄熙来の陰謀に対する疑惑を、いっそう掻き立てるものとなりました。 

  薄熙来は周永康の支援を受けて、無理やり劉を死刑に処し、ひとまず危機を逃れることに成功しましたが、彼の陰謀伝説は人々の記憶から消え去ることはなく、2010年の重慶における文強裁判を機に、ふたたび新たな陰謀疑惑とともに、復活することになります。

 文強の裁判に介入したとされる薄熙来と、これを支えた周永康という、劉涌裁判と同じ構図の疑惑は、薄と周を政治的に追い詰める原動力としての役割を果たしましたが、いずれの裁判も被告人が死刑になってしまったため、冤罪の見直しという可能性は、現実的にはかなり低いものと思われます。しかし両者は、歴史に残る刑事裁判の事例として、語り継がれていくことになるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

                                                 

                                                               周永康(左)と薄熙来

 

 

【参考文献

  陳興良「中国刑事司法改革についての一考察――劉涌事件と余祥林事件を素材として」(河村有教、李輝訳)

           『神戸法学雑誌』第57巻1号。

  小口彦太「劉涌事件をめぐって――中国刑事手続きの一齣」、『早稲田法学』第87巻3号。

  田中信行「劉涌の裁判と薄熙来」、『中国研究月報』、2012年12月号。

  田中信行「薄熙来と中国法の失われた10年」、『中国研究月報』、2013年9月号。

  田中信行 補論「薄熙来と打黒闘争」、『はじめての中国法』、2013年。

 

 

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