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                           文強死刑囚との最後の50分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                  第2審法廷の文強被告

 

 

・文強事件裁判

 重慶市公安局の副局長を16年間も務めていた文強は、2010年4月14日、黒社会組織にかかわった罪や収賄罪などで死刑判決を受けました。彼は控訴しましたが、5月21日の第2審判決は原判決を支持して、控訴を却下しました。7月7日に最高人民法院の死刑判決承認の決定にもとづき、死刑が執行されました。

 この事件については、薄熙来による政治的陰謀を指摘する疑惑がついて回っていますが、その原因は、彼の裁判が〔異地審判〕の原則* を拒否して、重慶市でおこなわれたことにあり、それが薄の指示によるものに違いないという憶測から出ているものです。 

 実際、重慶市高級人民法院は文強の逮捕後、〔異地審判〕の原則にもとづいて、彼を貴州省の法院で裁くため移送したのですが、重慶市党委員会がこの決定を取り消して、彼を重慶に連れ戻してしまったのです。

 

     * 〔異地審判〕については、「薄熙来夫人裁判を検証する」を参照下さい。

 

 噂されている薄熙来の政治的陰謀とは、重慶市の裏社会を知り尽くしている文強から、彼の前任者だった賀国強や汪洋の黒い材料を手に入れ、政治的な功績をあげようと企んだ、というものですが、これは遼寧省長時期以降の薄熙来が取り組んだ〔打黒闘争〕(黒社会組織犯罪の撲滅闘争)に共通するひとつの側面である、と指摘されています。

 

・王立軍との会話

 死刑執行前日の7月6日午後、文強の様子を取材に訪れていた『中国青年報』記者の眼の前に、王立軍公安局長(当時)がやってきて、別室で50分ほど、文とふたりだけで話し合いました。5日に〔双開〕処分(党と国家の職を解かれること)を通告されてからひどく落ち込んでいた文は、王立軍が帰った後、急に機嫌が良くなり、その夜は食事もしっかり食べ、未明にはサッカー・ワールドカップ南アフリカ大会の準決勝戦を、熱中して見ていたそうです。

 文は7日早朝に死刑執行を伝えられ、直後に処刑されたのですが、8日の『中国青年報』がこのスクープ記事を伝えてから、文強と王立軍の「最後の50分」の会話が、いったいどんな内容だったのかと、大きな話題になりました。

 この会話がどのくらい注目されていたかと言えば、『京華時報』の記者が、王立軍に直撃取材した記事を、新華ネットが転載して伝えていることでも、お分かり頂けると思います。ですが、この記事は噂を打ち消すことが目的ですから、誰もそんな内容を信用しているわけではありません。

 噂の要点は、王立軍が文強から情報を引き出すために、情報を提供すれば死刑にはしないと、薄熙来が保証している、と明言したのではないか、という点にあるのです。というのも、このときすでに薄と王は文の処刑を知っていたのですが、それを文には伝えず、最後の取引をおこなったらしい、と見られているからなのです。でなければ、王と会った後、文がそんなに元気を回復するはずがない、と噂の主たちは推測しているのです。

 

・王立軍の告発はあったか

 さて、話がこれだけなら、真実は闇のなか、ということで終わりなのですが、2012年2月に王立軍が成都の米国領事館に逃げ込むという事件を起こしたため、この話が突如蘇りました。

 すなわち、用心深い王は、薄との関係が悪化した時に備えて、このときの会話を録音していたらしい、というのです。王はその証拠を米国側に提出するとともに、後には中央規律検査委員会にも提出したのではないかと、さらに噂話は勢いを得て発展しています。

 こうしたしたたかな準備が奏功して、王立軍は死刑を免れることに成功したのだ、というストーリーになるのですが、もしそれが本当なら、薄熙来は相当痛いところを押さえられてしまっていることになります。というのも、そうした噂にのぼっている事件は文強の事件だけでなく、ほかにもいろいろとあるからなのです。

 〔黒社会〕という組織は、たんなる暴力団のような犯罪組織とは異なり、官民一体か官民癒着の組織であることが特徴とされています。〔黒社会〕犯罪組織に情報提供などの便宜を図り、違法行為の隠匿などに協力する官の側を、〔保護傘〕と呼びます。したがって、黒社会組織が摘発されるときには、これにかかわった官の側の摘発も同時におこなわれます。薄熙来の〔打黒闘争〕とは、じつは犯罪撲滅に名を借りた権力闘争なのではないかと、一部の事情通は見ているのです。

 少なくとも薄が〔異地審判〕の原則を守り、黙って文強を貴州に送り出していれば、こんな噂は立たなかったでしょうから、これは身から出たサビとしか言いようがありません。

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

                                                  文強の処刑を告知するため重慶市の中心街に掲げられた垂れ幕。

                               「文強の死は民を喜ばせ、重慶を安全にした」などと書かれている。

 

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