top of page

                俺の親父は李剛だ

 

 

                                            

                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.李剛って誰?

 これは最近、中国で流行っているジョークです。中国の大手投稿サイト「天涯」が2010年末に実施した調査で、同年のネット流行語第1位に選ばれています。しかし、このジョークのもとになったのは、笑い話どころではない、悲惨な事件でした。

 事件が起きたのは2010年10月16日の夜でした。河北省保定市にある河北大学構内で、制限速度を大幅に超えた乗用車が、2人の女子学生を跳ね飛ばし、1人は死亡、もう1人は重傷という大事故になりました。ところが乗用車を運転していた青年は、被害者を救助しようともせず、そのまま走り去ったのです。しかもどこへ行ったかといえば、同乗させていた女子学生を、構内にある学生寮まで送っていたのです。車は校門から出て行こうとしたところを、警備員、学生らに阻止され、運転していた青年は車から降りるように説得されたのですが、その時に吐いたセリフが、「俺の親父は李剛だぞ」、だったのです。

 青年は、河北メディア学院を同年6月に卒業し、地元テレビ局に勤務し始めたばかりでしたが、一躍有名人となってしまった彼の父親=李剛は、河北省保定市公安局北市区分局の副局長です。おそらく、われわれ日本人にはこのセリフの意味は理解できないでしょう。警察の副局長だからってどうなの、ということになってしまいますが、中国人なら誰もが常識として心得ていることなのです。

 

2.公安はそんなに偉いか

 「大公安、小法院、あってもなくてもいい検察院」というのは、1970年代までの中国で、司法制度の実情を表現したフレーズとしてよく使われてきました。一般には批判として受け止められていますが、これを肯定する意見も少なからずありました。中国の司法制度は本来、公安=警察、法院、検察院という3つの機関が、相互にチェックしあうことによってバランスを保ち、不正を防止するよう工夫されているのですが、1957年の反右派闘争以降、権力闘争が激化するにともない、司法も政争の道具に利用されるようになりました。その過程で、次第に公安機関に権力が集中するようになり、「大公安、小法院、あってもなくてもいい検察院」という状況に陥ったわけです。

 公安、法院、検察院などを指導する党の機関は政法委員会ですが、県級以下くらいの地方党委員会の政法委員会では、公安局長が書記を兼任するというのが基本的なパターとなり、そのことが「大公安」体制を支えてきたのです。公安機関の高級幹部は、公安機関内の実力者というだけでなく、司法界全体を掌握する権力者でもありました。したがって、改革・開放以降の司法制度改革では、公安機関の権限を他に分散するというのが、ひとつの一貫した課題となってきたのですが、近年はこれに逆行する動きも散見されるようになっていました。胡錦濤政権は「和諧社会」を標榜していますが、経済格差の是正に取り組む一方で、社会の安定を維持するため、公安による治安強化をすすめています。そのことがひとびとに、「大公安」体制の復活を想起させている部分があるのかもしれません。

 死傷事故を起こした件の青年は、李剛の“ドラ息子”として一気に有名人となりましたが、「俺の親父は」という彼のセリフがここまで関心を集めたのは、文革時さながらの彼の言動に、往時を思い出して懐かしんだ、という反応だけではないと思います。とりわけ、中国の法律関係者には、笑い話どころではない強い衝撃を与えたようですが、それは未だにこのような法意識が残存していることに対する驚きだけでなく、司法界が今なおこのような環境から抜け出せていない現状を、改めて思い知らされた、というところにあったようです。

 大学構内という場所で起きたこの事故ですが、河北大学の対応にも批判の矛先は向けられています。というのも、河北大学は学生に対し、この事件についてメディアへの情報提供やネットへの書き込みをいっさいしないよう命じ、違反した場合には処分すると警告したのです。このような事件隠しとも受け取れる大学側の対応は、やはり公安の権力を恐れてのことだったのでしょうか。

 

3.高額賠償金の理由

 ところで、気の毒なのは、ドラ息子のおかげで天下に名を馳せることになった、李剛副局長ではないでしょうか。息子の全責任を背負い込んで、平謝りの姿勢を貫いています。死亡した女子学生の遺族に、涙を流して謝罪し、46万元の賠償金支払いに応じたそうです。日本円に換算すれば600万円程度ですから、大した額にはなりませんが、賃金、物価などとの比較で考えれば、その10倍くらいの価値はあると推定されます。李副局長の年収がどのくらいか、正確には分かりませんが、10年分くらいには相当するのではないでしょうか。おそらく文革時なら、公安幹部がこのような賠償金の支払いに応じるなどということは、考えられなかったかもしれません。李副局長がこんなにも素早く、高額の賠償金支払いに応じたのは、個人的な理由によるものかもしれませんが、公安関係者の横暴に対する世間の厳しい反発に対する配慮が働いたのかもしれません。「大公安」の復活とはいっても、中国社会全体がすでに大きく変化していることもまた、否定しようのない事実といえましょう。

 

4.刑法修正にも影響?

 事故を起こした青年が酒を飲んで酔っぱらっていたことから、この事件は思わぬ波紋を及ぼしました。2010年8月に開催された全人代常務委員会会議には、刑法修正案が上程されていたのですが、この修正案のなかに、酒酔い運転に対する処罰が、はじめて明文で規定されていたからです。ところが、この時の草案では、「情状が劣悪な場合は、拘役に処し、あわせて罰金を科す」となっていたため、この事件をきっかけに、草案の罰則では軽すぎるという批判が巻き起こりました。情状が劣悪な場合は死刑にすべきだという意見も、多くの賛同を集めました。その結果、12月の会議に提出された第2次修正案では、「情状が劣悪な場合は」という条件が削除され、すべて「拘役に処し、あわせて罰金を科す」、と修正されたのです。

  拘役というのは、15日以上、6ヵ月以下の拘束刑ですが、毎月1、2日自宅に帰ることが許されたり、拘束中の労働に対して賃金が支払われたりするなど、懲役刑よりはかなり緩やかな刑となっています。中国は未成年の飲酒を禁止する法律を制定しておらず、飲酒には比較的寛容な国ですが、近年の急速なモータリゼーションによって交通事故も急増しており、悪質な酒酔い運転に対しては、世論も相当厳しくなっています。第2次修正案でも、どんなに悪質でも拘役以上はありませんから、これで世論を納得させることはできるでしょうか。

 

 

続報: 懲役6年

 ちなみに、李剛の息子についての裁判は、2011年1月に望都県人民法院でおこなわれ、懲役6年の判決が下されました。被告はこれに控訴しなかったため、判決は確定したとのことです。

 

       *参考ページ

        中央政法委員会は司法の元締め

        法院は“なぜ”信頼されていないのでしょう

 

 

 

bottom of page