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                                  死刑囚と臓器移植

 

 

 

 

1.世界第2位の移植大国

 中国での臓器移植は、文革直後の1976年に試みられましたが、技術の未熟さからことごとく失敗した、といわれています。それでも1980年代には年間数百件の移植がおこなわれていましたが、外国で技術を磨いた医師が帰国するようになった1990年代に急速に普及し、2000年代には米国に次ぐ世界第2位の件数を誇る移植大国となりました。実績が積み上がるなか、移植対象者は外国人に拡大し、移植費用も急騰したため、一部の病院にとっては貴重な財源となるようになっていきました。その一方で、臓器の提供については明確な制度がなかったため、臓器売買がおこなわれるようになっていったと指摘されています。

 こうした問題に対処するため、中国政府は2007年に「人体器官移植条例」を定め、臓器売買を禁止して、臓器の提供は自由意思にもとづく、との原則を明記し、国内での移植医療に必要な臓器が不足する状況を前提に、実質的に外国人に対する臓器移植を禁止しました。しかし、このことはかえって、違法な臓器売買を生み出し、外国人に対する違法な移植治療を助長することになってしまいました。

 

2.蘇家屯事件

 死刑囚による臓器提供がいつごろ始まったかについては、公表された資料がないため確認できませんが、2000年頃の移植医療の普及がその背景にあるものと考えられます。当時、中国政府はこれを機密事項として非公開の扱いにしていましたが、2006年になってはじめてその事実を認めました。

 同年3月にふたりの法輪功信者が、遼寧省瀋陽市にある蘇家屯血栓医院で、拘束された法輪功信者から多くの臓器が摘出され、移植用に提供されている、という告発をしたため(蘇家屯事件)、世界の注目を集めました。中国政府はこれを事実無根と否定しましたが、臓器の提供元について説明する必要に迫られ、その主要な部分が死刑囚であることを公式に認めたのです。

 蘇家屯事件については、調査が行われたかについてさえ明らかでないため、実態は闇のなかですが、1999年に江沢民総書記(当時)が610弁公室を発足させたことを受け、薄熙来が省長をつとめていた遼寧省では、厳しい法輪功の弾圧がおこなわれていました。薄熙来の命を受け、法輪功の取締りを直接指導したのは王立軍ですが、蘇家屯医院では拘束された法輪功信者を対象に、生体からの臓器摘出が実施され、王立軍自身ことのほか熱心に生体移植の実験に取組み、いくつかの研究論文を書いて表彰されたりしています。

 蘇家屯事件が闇に葬られたのは、610弁公室の問題が表面化することを避けるためであったと思われますが、これをきっかけに臓器移植にかかわる法令、通知などが関係機関から相次いで出され、法制化が急速に進むことになりました。翌年に制定された人体器官移植条例は、ひとまずの到達点ということになるでしょう。

 

3.死刑囚による臓器提供の廃止

 人体器官移植条例は、臓器の提供が自由意思のもとにおこなわれなければならないことを原則として確認していますが、実際には家族、近親者以外から臓器の提供を受ける方法が整備されていなかったため、実質的にドナーの大半が死刑囚に限られる状況を変えることはできませんでした。

 そこで2010年に衛生部(現在の国家衛生・計画出産委員会)と中国赤十字会は、市民からの臓器提供を実現する取り組みをスタートさせ、2012年には「中国人体臓器提供管理センター」が設立されたました。ですが、2010~2013年のあいだに同センターが仲介した移植事例は約1500件にすぎず、登録されたドナーの数も2万人に及ばないというのが実態のようです。

 ひとまず臓器提供システムが動き出したことを受け、政府は2015年1月1日から死刑囚による臓器提供を廃止すると通知しました。これによって、国内外から批判されてきた、死刑囚からの強制的な臓器摘出は廃止されたのですが、一方で市民からの臓器提供システムが機能しなければ、移植医療に大きな障害を生ずることになります。違法な臓器売買、移植手術などが闇でおこなわれるようになれば、かえって状況を悪化させることにもつながりかねません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                             死刑囚による臓器提供問題を扱った中国映画「再生の朝に」のポスター

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