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               習近平は法学博士?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                            2014年1月7日、中央政法工作会議で司法改革についての

                            重要な講話を発表した習近平総書記。     (人民網) 

 

 

 

 

・在職研究生

 習近平総書記は、清華大学の卒業生として知られていますが、卒業したのは化学工程系という自然科学の分野なのに、法学博士の学位を持っています。同じように、李克強国務院総理は北京大学法学部の卒業ですが、持っているのは経済学の博士号なのです。中国の党と政府のトップリーダーが、どちらも博士というのは、建国以来はじめてのことですが、これはいったい、どういうことなのでしょうか?

 じつは2人とも、大学院には一般の大学院生としてではなく、「在職研究生」という資格で入学しているのです。つまり大学を卒業したのち、仕事を持ちながら大学院に入学したわけです。

 習近平は1979年に大学を卒業していますが、大学院に入学したのは1998年で、2002年まで在籍していましたが、修士の学位は取得していませんから、論文博士ということになります。その頃、彼はすでに福建省で党委員会副書記、省長などの要職にありました。そんな要職にありながら、なぜ遠く離れた北京の大学に? という疑問はありますが、物理的に不可能なわけではありません。というのも、この頃の論文博士の場合、かならずしも授業に出て先生の講義を受ける必要はなく、通信教育のような方法でも学位を取得することができたからです。また、公表されている彼の履歴を見ると、「在職研究生班」に入学した、とありますので、これは一般の大学院生とは異なる、あえて日本語に訳せば「社会人コース」ともいうべき、特別な課程だということが分かります。

 

・学歴社会に

 1990年代に中国は、大学教育が全国的に普及するのに合わせて、急速に学歴社会へと変貌していきます。専門的な知識、技能が求められるようになり、職種やポストに学歴の制限が加えられ、出世コースに乗るには博士の学位が不可欠という時代になっていったのです。そこで困ったのは、すでに中間管理職あたりを占めるようになっていた40代前後の世代です。彼らは大部分がまだ大学の学部を卒業していれば恵まれている方で、なかには高卒程度という学歴の人たちも少なくなかったからです。

 そこで各大学は、そうした人たちを「在職研究生」として受け入れるようになり、1990年代の後半には夜間に限って授業をおこなう「在職研究生班」という特別なコースを設置する大学も増えてきました。要するにこれは、文革の影響で高学歴を取得できなかった人たちへの救済策でもあったわけです。

 時代の変わり目となった2000年頃は、ちょっとした「在職研究生」のブームで、研究会などの催事の後、「それでは1杯」という話になった時、しばしば出席していた政府の幹部が、「これから授業があるので」と帰って行ったことを思い出します。

 

・ゴースト・ライター?

 ところで、習近平の博士論文については、2013年8月に英国の「サンデー・タイムズ」紙が、中国での噂話としてゴースト・ライターの存在を指摘し、本人が書いたものか疑問視されている、と伝えました。誰かの代筆であれば学位を詐取したことになりますので、よその国であれば辞任問題になりかねないところですが、中国では公式にはまったく問題にされていません。

 そもそも、上述のように、「在職研究生」というのは一般の大学院生とは区別された存在ですから、求められているものが違うのです。清華大学の学則によれば、「長期の実務経験を持ち、研究成果が突出している」ことが博士の条件ですので、習クラスの「実務経験と研究成果」なら、まったく問題のないレベルなのだと思われます。

 

・経済学の論文で法学博士

 ちなみに、習の博士論文のタイトルは、「中国農村市場化研究」と言われており、ネット上にはこれをアップロードしたものも存在しますが、正式に公表されたものは見かけません。中国には清華大学自身が運営する学術データベース〔中国知網〕があり、博士論文などはここで閲覧することができますが、習の論文は収録されていません。唯一、その書評が、2001年12月31日の『経済日報』紙に掲載されていることでその存在を確認できますが、そこで紹介されている論文のタイトルは、「中国農村市場化建設研究」となっていますので、この書評は博士論文全体を対象にしたのではなく、その一部を読んだものではないかと推測されます。いずれにしても、その書評を書いたのは、国務院発展研究センター農村経済研究部の韓俊部長なので、その内容についてはしっかりと太鼓判が押されている、というわけです。

 また、この書評からも明らかなように、論文は間違いなく経済学のものなのですが、これに法学博士の学位が与えられた理由についても説明しておきましょう。習が入学したのは、朱鎔基が院長を務めていたことでも知られる経済管理学院ではなく、人文社会科学学院* という学部です。彼はここのマルクス主義理論と思想政治教育専攻というコースに在籍して学位を取得したのですが、学位の体系として、「マルクス主義理論と思想政治教育」は法学の分野に属しているから、というわけなのです。

 

  * 現在は、人文学院と社会科学学院に分かれています。

 

・李克強との違い

 最後に、李克強についても触れておきましょう。李は1978年に北京大学の法学部に入学し、1982年に卒業しています。卒業後は共青団の中央書記処で働き、1985年には書記になっていますが、1988年に北京大学の経済学部大学院経済学専攻に在職研究生として入学し、修士と博士の学位を取得しています。改革派として知られる厲以寧教授の指導を受け、「我が国経済の三元的構造について」と題する論文で、博士号を得ました。この論文も〔中国知網〕では閲覧できませんが、その中心となる部分を抜き出したと思われる同名の論文が、『中国社会科学』(中国社会科学院の機関誌)の1991年第3号に掲載されています。しかもこの論文は、中国で経済学の最高の賞ともいわれる孫冶方経済科学賞を、1996年に受賞したのです。

 李克強が習近平との出世争いに敗れたのは、改革志向が強すぎて、それが保守的な長老連中に敬遠されたせい、とする見方がありますが、仮にその見方が当たっていたとすれば、この論文はそうした評価を生み出す原点となり、彼自身の足を引っ張る結果につながったのかもしれません。ですが、彼が勤勉な学者肌の政治家であることは、誰もが認めるところのようです。

 その反対に、習近平については、ゴースト・ライター説のような噂話がつきまとうのは、彼の家庭環境に由来するものと思われます。周知のように、彼の父仲勲は、国務院副総理、全人代常務委員会副委員長などを務めた超高級幹部で、近平は紛れもない太子党のひとりです。したがって、清華大学の入学にあたっても、〔工農兵学員〕という推薦入学の特別枠で入学しており、普通に受験した李克強とは立場がまったく異なっています。おそらくこうしたことが背景にあるため、博士号の取得についても、何か特別な待遇を受けたのではないか、という疑念をもたれてしまうのだと思われます。

 真実がいずれにあるかは、今のところ明らかにしようもありませんし、そのことが何か重要な意味をもつものでもありませんので、要するにどうでもよいことなのですが、司法改革に関心を持つ立場としては、せっかくの法学博士が、法学とはじつはほとんど関係がなかったというのは、ちょっと残念な話ではあります。

 

 

 

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