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                               夏勇教授の華麗な転身

 

 

 

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

【続報】

 2016年5月末に、中央規律検査委員会による調査を受けているという情報が流されていた、国務院法制弁公室の夏勇副主任は、7月28日の全国人民政治協商会議の常務委員会会議で、全国委員の資格を取り消されていましたが、8月31日に全人代の公式HPがこれを公表しました。明らかにされた内容はこれだけですが、法制弁公室のHPでは、副主任の名簿から削除されているため、すでに解任されたものと見られています。

 香港のメディアなどが伝えるところによれば、同氏の容疑は、すでに有罪判決(無期懲役)が出ている令計画・前全国人民政治協商会議副主席の事件に関連するもののようです。

 下に記した夏の経歴が示すように、機密局長時代は同時に党の中央機密保護委員会弁公室主任でもあったのですが、令計画は当時、中央弁公庁の副主任、主任を務めており、直接の上司であったわけです。

 法制弁公室への異動は、彼にとってよりふさわしい職場への配置換えのように思われましたが、今から振り返ってみれば、疑惑解明のための謹慎処分だったのかもしれません。彼がその本来の能力を発揮し、〔依法行政〕の実現に向けて大いに貢献してくれることを期待しただけに、このような華麗ならざる転身が最後に待ち受けていたことは、残念というほかありません。

 筆者(田中)が、10年以上も前に書評(論文一覧参照)を書いた本、 『権利に向かう時代〔走向権利的時代〕』(中国政法大学出版社、1995年)の編者、夏勇氏は、若き日の江沢民を偲ばせるような風貌の、しかし明るい性格の人です。彼は1961年に生まれ、1978年に西南政法大学に入学していますが、同級生には賀衛方北京大学教授など、多くの逸材が集まっていて、花の78年組といわれている世代です。

 『権利に向かう時代』は、フォード財団の助成を受け、若手研究者の集団が実態調査を踏まえて、中国における法治の状況を分析した、当時としては画期的な内容でした。中国での実態調査の困難さを実感していた筆者も、本書を読んで感動し、中国の法学研究に新しい時代を切り拓く研究成果である、と絶賛する書評(のつもり)を書いてしまいました。ですがその際、あまりべた褒めするのも憚られたので、本書の唯一の欠点として、アンケート調査の結果を詳細に分析しているところがウリであるにもかかわらず、調査票の内容が具体的に示されていないことは残念、と余計なことを書いてしまいました。

 

 その後、本書は2000年に改訂版が出されています。当時、彼はまだ40歳そこそこの若さで、法学研究所の所長に就任していました。筆者は法学研究所で、所長に就任したばかりの夏自身からその改訂版を贈られたのですが、その時はそれが改訂版であるとは気づきませんでした。そこで筆者は、書評を書いたことを話し、遠慮もなく調査票の件に言及してしまいました。すると彼は嬉しそうな顔をして、この改訂版には調査票が収録されていると、その部分を開きながら次のように説明してくれました。

 

 初版当時は、さすがに本の内容が問題視され、出版すら危ぶまれたので、できるだけ安全策を取ることにし、調査票の収録は諦めたのだが、時間とともに言論の自由が広がってきたので、調査票を公開するために改訂版を出した、ということでした。

 

 夏勇教授は、西南政法大学を卒業した後、ハーバード大学に留学し、帰国したのちは社会科学院法学研究所に籍を置き、憲法、人権問題の専門家となりました。同書の評価が影響したのかは分かりませんが、1995年に中国法学会が始めた全国青年法学者トップ10の第1回に選出され、研究者としての地位を築きました。1998年には30代ながら法学研究所副所長に就任しています。

 

 また、エリート党員として出世街道を走りだすきっかけを作ったのは、2000年9月に開催された中南海法制講座の講師をつとめたことです。中南海法制講座というのは、江沢民総書記(当時)はじめ中央政治局常務委員など党の最高幹部を対象に、法学者が中国の法治にかかわる時々の重要テーマについて順番に講義するというものですが、彼が報告したのは39歳の時でした。

 

 この報告を評価された夏教授は、2002年に法学研究所の所長に任命され、さらには所長在任のまま、胡錦涛弁公室に誘われ、副主任を務めることになりました。胡総書記のブレーンとなってからは、エリート街道を一気に駆け上がっていきます。中国法学会副会長などいくつかの学会の要職に就いたほか、全国人民代表大会常務委員会の香港基本法委員会委員など、政治の第一線にも活躍の場を広げていきました。

 

 中国における言論自由化の進展を研究者として待った夏教授は、その後、自由化政策を推進する側に立場を変えることになります。2005年6月、彼は国家機密保護局(以下、機密局と略す)の局長に転身し、世間をあっと言わせたのです。人権派の若手研究者として売り出した彼が、機密局という対極に位置するような場所に、突如職場を変えたことは、社会に大きな驚きと衝撃を与えました。

 

 機密局は、その名が示すとおり、秘密のヴェールに包まれた機関ですが、その実体は党の中央機密保護委員会弁公室で、機密局は表の看板にすぎません。夏氏は、機密局局長であるとともに弁公室主任でもあります。胡総書記がこの重要ポストに、実務経験のない夏氏を抜擢した理由は、情報公開についての新たな方針を決定するためで、具体的には情報公開条例の立法を任せるためでした。党は内外の情報を管理し、その一部を国家機密として非公開にしてきましたが、非公開の範囲が広すぎるとの批判を浴びて、その見直しを余儀なくされていたのです。

 

 情報公開は政治の民主化にとって必要不可欠の要素ですが、中国では社会不安の要因となる可能性のある情報は、原則すべて非公開とされてきました。しかし、エイズ、SARS,、鳥インフルエンザなどの流行、地震、水害など自然災害にかかわる被害情報などを非公開としていることが、防疫、防災、人命救助などの対策の遅れを招き、内外の厳しい批判を浴びるようになっています。とりわけ、2003年におけるSARS対策の遅れを深刻に受け止めた党は、機密局に「政府情報公開条例」の草案を起草させ、その立法を促しました。しかし、関係機関の多くは情報公開に消極的で、立法は難航していました。

 

 2000年に機密局が民政部と共同で出した71号文献は、自然災害における死亡者数などを、国家機密扱いにしていました。ですが、夏氏が局長に就任した直後の2005年8月、機密局が同じく民政部と共同で出した116号文献は、自然災害における死亡者数を機密の範囲から除外したのです。もっとも、この変化が夏氏の局長就任によるものという見方は短絡的すぎるかもしれませんが、今後、彼が情報公開の進展にどのような手腕を発揮するか、長い目で注目していきたいと思います。

 

 *追記

   2013年3月に夏勇氏は、機密局から同じ国務院の法制弁公室副主任に異動しました。

 

 

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