中国法入門
田中信行研究室
中国法について知ろう
字幕的翻訳術
1.『再生の朝に ― ある裁判官の選択 ―』
映画の配給会社から、解説を書くよう依頼を受けるまで、その映画については、存在さえ知りませんでした。後に、北京へ行ったときに、法律研究者や弁護士の知人ら数人に聞いてみましたが、誰ひとり知りませんでした。実際には北京でも上映されたようですから、中国ではあまり宣伝されることはなかったようです。
中国での上映が比較的静かに実施されたのは、おそらくこの映画の内容と関係していると思われます。映画全体は非常に淡々とした描写で、どちらかというと暗い雰囲気で、地味な印象すが、そこに提起されている問題は、中国における裁判の現状を鋭く批判し、厳しく告発しています。現在の中国の社会状況を考慮すると、やはり声高に発言するには、ややためらいを感じられる内容と言えるかもしれません。
そんな内容ですので、このストーリーを正しく理解するには、中国の裁判制度について、ある程度の予備知識が必要です。中国の人々は、それらのことを、正確とはいえなくても、社会経験を通じて学んでいますが、日本人の我々が見る場合には、まったく予備知識がないと理解できません。中国の裁判制度は、日本のそれとかなり違っていますから、我々の常識がかえって理解を妨げ、誤解を生ずる原因にさえなってしまう可能性もあります。
2.問題はどこにあるか
この映画のストーリーが、キーポイントのひとつとしているのは、自動車を2台盗んだだけで死刑になうのは、あまりにも理不尽ではないか、という問題ですが、これが刑法改正の問題と絡んでます。事件が起きた時点の刑法では、死刑の適用もありという内容でしたが、裁判が行われた時点では、改正が行われ、死刑の対象からは外れていました。刑法の適用についての原則では、犯罪時の法律を適用することになっていますが、これには例外があって、裁判時に法改正によって刑が軽くなった場合には、軽い方の刑が適用されることになっています。したがって、刑法の適用という点では、明らかに死刑は適用できないことになります。
映画のなかでは、裁判官たちがこの問題を取り上げ、議論するシーンがありますが、彼らを悩ませていたのは、刑法をどう適用するかの問題ではありません。じつは中国の裁判所には、それぞれどの場合に死刑を適用すべきかについての具体的な基準があります。この裁判所には、3万元以上の窃盗は死刑という基準があり、これを適用すべきか否かについて議論していたのです。この基準は10年以上も前に作られたものだったので、本来なら刑法改正に合わせて見直されていればよかったのですが、本件裁判は刑法改正の直後に行われたため、それが間に合わなかったのです。
このような問題は、刑法は例外として遡及効が認められる場合があるという知識だけでは、理解できません。法律の知識豊かな劉傑監督ならではのストーリー作りといえますが、特殊に中国的な問題なので、我々には理解しがたい部分でしょう。
3.正確が最善か
そのように一定の専門知識を要求されるストーリ―であったため、配給会社の依頼で、字幕の監修をすることになりました。映画の字幕を監修するのはこれが初めてではなく、20年近くも前に一度だけ、『秋菊の物語』〔秋菊打官司〕でも経験したことがありましたので、すぐにその時のことを想い出しました。
『秋菊の物語』は、張芸謀監督、鞏俐主演で、1992年に制作された映画です。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞と主演女優賞を獲得した、話題の映画でした。1987年に制定された行政訴訟法にもとづく裁判が、ストーリーの柱になっていたため、セリフの一部に分かりにくいところがあったのです。おまけに当時はまだ中国語を翻訳できる字幕製作者がいなかったせいで、著名な字幕製作者が英訳された脚本を翻訳するという、今では想像できないやり方で作られていました。そこで私は、中国語の脚本をもとに、日本語字幕をチェックするという作業を命ぜられたのですが、私がチェックした部分は、ほとんど英訳の際に生じた問題であったと記憶しています。
今でも鮮明に覚えているのは、「村長」をどう訳すかという問題でした。被告人となる村長とは、村民委員会主任のことです。正確には「主任」というのが肩書ですが、その立場が村長に近いので、一般には村長と呼ばれており、脚本も「村長」となっていました。それなら何も問題がないのでは、ということかもしれませんが、日本では村長は村という行政単位の首長を意味します。中国の村民委員会は行政村という行政単位に設置された自治組織で、主任はその責任者ということになります。したがって、日本でいう村長にあたるのは、行政村より一つ上の行政単位である郷の首長=「郷長」ということになります。
あれこれ悩んだ挙句、結論としては「村長」のまま、ということになりました。法律問題としては重要な部分だったのですが、映画としては分かりやすさが優先されることになったのです。
4.簡単には説明できないこと
この『再生の朝に』でも、これと似た問題がありました。主人公の裁判長が死刑判決の責任を問い詰められて。「それは裁判委員会が決めたことだから」と、弁明するシーンがあります。最初に作られた字幕では、「みんなで決めたことだから」と訳されていました。おそらく、唐突に「裁判委員会」などという単語が出てきても、いったいそれは何? ということになってしまうので、分かりやすくしようと考えたものと理解しました。しかし、「みんなで決めた」となると、その「みんな」とは、裁判長を含む3人の裁判官を指すことになり、まったく意味が違ってきます。
裁判委員会というのは、裁判所の所長以下、数名の幹部で構成される組織で、死刑判決のような重大事件の場合には、ここが判決を決めることになっており、審理にあたった3名の裁判官には判決の決定権がないのです。「みんなで決めた」と訳したのでは、裁判長の言い訳が、言い訳にならなくなってしまいます。
私としては、やはりここは譲れない重要なところと考え、原文通り「裁判委員会が決めた」とするよう要求したかったのですが、それは映画を見る人には不親切なのかもしれません。結局のところ、このセリフは、「合意のもとで下した」という意味不明な内容に置き換えられてしまったのですが、これが翻訳の限界ということなのでしょう。同時に、これではこのやり取りの意味がまったく分からないので、その説明を映画のパンフレットに書くことにしました。本なら注を付ければ済むところですが、映画はそれができないので、なかなか難しいところです。
5.字余り
今回の仕事で、字幕づくりには、字数制限という問題があることを、あらためて思い知らされました。同じ字数の話なら、読むより話す方が速いので、字幕は実際のセリフより短くなっていることは、経験として理解していますが、これは想像より厳しいものでした。とりわけ、中国語は日本語より全般に表現が簡潔なため、研究論文の場合などは、日本語に翻訳すると、おおよそ字数が5割増くらいになります。
この映画では、自動車を2台窃盗した事件が問題となっていますが、この2台は一度に盗まれたのではなく、1台ずつ2度にわたって繰り返し盗まれたのです。つまり窃盗行為は2度行われているのですが、このように犯罪を繰り返すことは累犯と呼ばれ、情状が悪質であると考えられます。本件でも判決が厳しくなった背景にはこの問題があったのですが、これを指摘した部分のセリフは、じつに簡潔な中国語らしい表現になっていました。
さてそこで、この部分をどう字幕に収めるかが問題になりました。「自動車2台を2度にわたって繰り返し盗んだ悪質な窃盗行為」とでも訳せば、セリフの意味を正しく翻訳できますが、これでは軽く字数制限をオーバーし、収まりません。せいぜい「2度にわたって自動車を盗み」とすれば、制限内で累犯であることは表現できますが、盗んだのが2台という事実が落ちてしまいます。私としては、字数が少しくらい増えても、という気持ちでしたが、製作者としてはルールは厳守という姿勢のようです。若者の文字離れが進み、文字数が多いと追いつかないのでしょうか。
6.映画はドラマチックに
最後に、余計かもしれないことをひとつ。この映画の宣伝文などでは、まず、「刑法改正の狭間で起きた一つの事件」という点が強調され、「ティエンは法に従い極刑を宣告するが、その後、刑法が変わり、チウ・ウーは死刑に値しないということが判明する」と説明されています。
しかし、この説明は正しくありません。上にも述べたように、裁判は改正後に行われており、この問題は映画の中で裁判官も言及しているからです。私はこの点を配給会社の方に指摘して抗議しましたが、却下されてしまいました。この説明の方が、ドラマチックで分かりやすい、というのがその理由でした。
むむ・・・。
人民大会堂大会議場で開催される全国人民代表大会
最高人民法院
2015年6月11日に、第1審判決を受けた周永康
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