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                     始まった? 民営企業の国有化

◆ 私営企業退場論の衝撃 

 2018年9月11日に、呉小平というあまり知られていない人物の論文がネット上に公表されると大変な注目を集め、瞬く間に拡散しただけでなく、大論争を引き起こしました。彼の論文タイトルは、「私営経済はすでに公有経済の発展に貢献し終えたので、徐々に退場すべきである」というものでした。要するに、中国の私営企業*はその役割を終えたから今後は廃止していくべきだ、と主張していたのです。この論文が注目された理由は、多くの人が密かに認めながら、表向きは党が否定しているため黙視してきた主張をあえて公言した、という点にあったのではないかと思われます。やはりそうだろう、と考えながらも、それを言ってしまったらどういう仕打ちを受けるかわからない、と考えて沈黙を守っていたところ、堂々と公言する主張がネットに登場したのです。誰もがその後の反響に興味を持たないわけはありません。

 「多くの人が密かに認め」というのは、そう願っているという意味ではありません。党は政策として反対の方向を示しているが本音はこちらだろう、という風に考えている、という意味です。つまり政策としては私営企業の発展を支持すると言っているが、いつかきっと私営企業を潰しにかかるに違いない、と危惧しているのです。呉氏の論文は、まさに多くの中国人が懸念している、最も根源的な政治問題を直撃していたのです。

◆ 習政権が否定する改革

 私営企業が潰されるかもしれない、という問題は、私有制の排除という政策転換によってもたらされるのですが、これを個人的な問題に置き換えれば、私有財産の没収ということになります。つまりこの問題が私営企業の経営者にとっての問題というだけでなく、一般市民の個人財産にも直接かかわってくるところに、多くの中国人にとって目の離せない切実な問題である理由があるのです。

 呉氏の論文が社会に衝撃を与えたばかりの16日に、北京の釣魚台国賓館で開催された50人論壇という政府主催の研究会で、現行の経済政策に対する厳しい批判が噴出したと伝えられると、呉氏の主張は一層注目を集めるようになりました。50人論壇というのは、これまでの経済改革をリードしてきた研究者、官僚OBなどによって組織された研究会だったので、彼らが手厳しく批判したということは、現行の経済政策が従来とは異なる方向に進んでいることを示唆していたからです。市場経済への移行といいながら、近年は「国進民退」の傾向が着実に強まっていることも、改革派には受け入れがたい問題です。

    ※ 国進民退」とは、国有経済が発展し、民有経済が衰退することを言います。1990年代の中国経済は私営企業を中心とする民有経済の発展に

    支えられ、慢性的な赤字経営から脱却できない国有企業は衰退する一方でした。この状況を指して「国退民進」と言ったのですが、2000年代半

    ば以降は国有企業の改革、再編が成功して、この関係が逆転しています。

◆ 私有制への不信感

 誰もが理解している通り、鄧小平によってはじめられた改革・開放政策は、社会主義の経済体制から市場経済の体制へと移行することを目標に掲げており、その改革の過程で多元的な所有制への移行、すなわち私有制を含む三元的所有制(国家的所有、集団的所有、私的所有)が認められるようになったのです。しかし憲法によって私有財産が認められたのは2004年になってのことにすぎません。したがって私有制は意識の上でもまだ社会的に定着したものとはいえず、党の政策変更によっていつかまた突然廃止されてしまうかもしれないという危惧は、多くの人々によって共有されているようです。家族を海外に移住させたり、海外の不動産を購入したりすることに熱心な人々は、個人資産を国内に置いたままにしておくと、いつ没収されるか分からない、と心配しているのです。文革時の政治体制への傾斜が強まっている習近平政権のもとでは、そうした心配は取り越し苦労ではないかもしれない、というわけなのです。

 呉氏の論文によって突然表舞台に引きずり出された主張は、したがって習政権の本質的な改革の方向を暴いたものと受け取られたのです。

 当初はネット上で注目を集めたこの議論は、あっという間に社会全体に広がっていきました。習総書記自身が明確に否定しただけでなく、政府機関、政府系メディアなどが、私営企業の振興は一貫して維持されている政策だと宣伝し、私営企業退場論の火消しに奮闘しましたが、そうしたさなかこれを実証するようなニュースが伝えられました。

◆ 上場企業を買収

 9月27日の上海証券報によれば、2018年1~9月のあいだに証券市場に上場している民営企業**46社の株が国によって買収され、うち24社は過半数の株を買収されたというのです。すべての株を買収して実質的に国有化した事例もあります。問題はこの買収が市場のルールに則って実施されたものであればまだしも、実際には強制されたものである可能性も排除できないところにあります。市場価格に近い株価で買収された事例も報告されていますが、総額1元あるいは無償で買収された事例もあり、実態はかなり複雑なようです。政府はこの買収を支援策であると説明していますが、はたしてそうなのでしょうか。

 呉氏が私営企業退場論を公表した前日の9月10日に、アリババの馬雲会長が1年後に引退すると表明して、世界を驚かせました。馬会長自身はみずからの考えにもとづくものだと説明しましたが、中国の人々はあまり信用していないでしょうね。とくに私営企業退場論で騒いでいる人たちは、馬会長はきっと辞めさせられたに違いないと疑っているはずです。

 馬会長辞任のニュースを追いかけるように、今度は華為買収の噂が飛び交い、9月14日の新聞、ネットが一斉に華為本社がこれを否定した、と伝えました。華為は日本でいう株式会社(株式有限会社)ではなく有限会社(有限責任会社)ですから、証券市場には上場しておらず、100%従業員持株制を採用していて、実際に株を持っている従業員は8万人以上いるそうです。したがって強制的な没収でもなければ、買収はかなり面倒な手続きになるはずです。華為がこうした会社形態を採用しているのは、民営企業としての防衛策という意味もあるのでしょうか。

◆ 警戒する世論

 さて、民営企業の国有化というこの問題ですが、まだ始まったばかりで、その対象になっているのはほんの一部にすぎません。しかし華為をめぐる偽情報がネットを駆け巡るなど、社会がちょっとフライング気味に、しかも過剰に敏感になっているのは確かなようです。ですがそれはこの問題が中国の社会と人々にとって、いかに深刻なものであるかを証明しているのではないでしょうか。

 国に買収された上場企業というのは、民営企業としては数少ない大型企業であり、代表的な地位を築いた企業です。この部分がさらに国有化されていくようなことにでもなれば、私営企業退場論は否定しがたい国の政策として認めないわけにはいかなくなります。政府がこれを必死になって否定しているのは、将来を絶望した企業家が経営を放棄し、買収する前に民営企業が衰退してしまうことを恐れているからだろうと世論は判断しているわけですが、そうした疑心暗鬼が拡まれば、それだけでもマイナス要因になりかねません。何事にも強引な手法が目立つ習政権ですが、企業家がみずから撤退の準備をする前に国有化を完了してしまうような荒業に打って出るでしょうか。いずれにしてもこの先、国による買収がどこまで進むのか、その動向から目が離せません。

◆ 民法典への影響

 最後に法律的な問題を付け加えれば、この問題は現在編纂作業中の民法典にも深くかかわっています。なぜなら私営企業退場論は、物権法違憲論***と同じスタンスの議論だからです。現在の物権法でも私有制と公有制が平等に扱われているかについては議論がありますが、仮に私営企業退場論が肯定されることにでもなれば、私有制は厳しく制限されることになるでしょうし、そこまでいかないにしても国進民退がさらにステップアップすれば、物権法にもなんらかの影響が出ることは避けられないかもしれません。

    *「私営企業」とは、個人が経営する企業のことで、私有企業と同義ですが、中国では私有企業とは呼びません。会社法が規定する株式制の

     企業は含まれません。

    **「民営企業」とは、非公有制に属する企業を指し、私営企業のほか、会社法により設立された企業(有限責任会社、株式有限会社)、外資系

     企業などを含みます。このうち証券市場に上場されているのは、株式有限会社形態の企業(の一部)だけです。

   ***「物権法違憲論」については、『はじめての中国法』第9章の3「物権法の大いなる論争」を参照してください。

 

 

 

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